「史明様! こちらでございます!」
「森末さん!」
やっとのことで海外出張から帰国すると、同行した社員との別れの挨拶もそこそこに、
僕を迎えに来てくれた森末さんを見つけて小走りに近づく。
いつもはそんな慌てたりしないし、もう少し落ち着いて同行した社員たちを労ったりもするんだけれど、
今日はそんなことを言ってはいられない。
長かった……本当なら子供が産まれたと告げられたあのときに、そのまま日本へとんぼ返りしようかと思った。
でも、そんな無責任なことはできるはずもなく。
そんなことをしたら静乃さんになんて言われるか。
その前に社会人として、経営に関わるものとして失格だと思う。
そんな心の葛藤をおくびにも出さず、一日でも早く帰れるようにと精力的に昼間は仕事をこなした。
静乃さんとは電話で話をしただけだった。
最初にもらった電話で、産まれたのは男の子だと教えられた。
本当は静乃さんの顔も見たかったし産まれた子供も見たかったけれど、きっと画面越しで2人の顔を見たら
そのまま荷物を片付けて帰国したくなることがわかるので我慢した。
それに産後の静乃さんを疲れさせるのも心配だったから。
それなのに! 裕平と梨佳ちゃんは僕の気持ちなんておかまいなしに子供の写真を送ってくる。
酷いときには、子供を抱っこしたものなんかもあったりする。
僕だってまだこの手に触れていないのに!
梨佳ちゃんは純粋に僕達の子供が生まれたことを喜んでいるというのと可愛くて仕方ないらしいんだが、
裕平は絶対僕がすぐに帰国できないことを面白がっているだけだと思う。
とりあえず、僕が帰るまで子供の写真を撮ることはお願いした。
だって、生まれてから僕が帰国するまでの日々はもう二度と戻ってこないんだから!
「おかえりなさい、史明くん」
「ただいま、静乃さん。遅くなってすみません」
静乃さんはずでに退院していて実家に戻っていた。
初めての出産で1ヶ月検診まではこちらにお世話になることになっている。
僕達の家に来てもらってもよかったんだけれども、そう何度もあることではないのでこういうときは
実家にお世話になりなさいと静乃さんご両親たっての申し入れだった。
こちらにとっても初孫になるわけで、きっと心待ちにしているんじゃないかと思ってお願いすることにした。
僕としては2人と少しの間でも離ればなれになるのは寂しかったけれど、これも親孝行かと思って涙を呑んだ。
それにこれから先、ずっと一緒にいられるのだから少しの間ぐらい我慢しようと思った。
だから空港から真っ直ぐ静乃さんの実家に向かって、今玄関先で静乃さんに迎えられたところだ。
以前と変わらない静乃さんに安心しながら、一番大事なときに傍にいなかったことが申し訳なくて玄関先で頭を下げている。
しかも、すぐに会社に戻らなければいけなくてさらに申し訳なくなってくる。
「なに言ってるのよ。仕事だったんだから仕方ないわよ」
「でも……静乃さんの大変なときに傍にいれなくて……僕は夫として情けないです」
「予定より早く産まれちゃったんだから仕方ないわ。まさか史明くんが出かけてすぐに陣痛が始まるなんて思ってなかったもの」
「はあ……でも……」
「ほらほら、そんなところで話してないで上がったら? 今はゆっくりしてられないんでしょ?」
奥からお義母さんが顔を出して声をかけてくれた。
そうだ、時間がなかった。
「そうよ、早く上がって。あなたの息子に会ってやって」
「はい」
玄関で靴を脱ぎながらゴクンと唾を飲み込む。
ついに……我が子との対面ですよ!
どれだけ待ち望んでいたことか!
「静乃さんは身体のほうは大丈夫なんですか?」
「うん。ずっと横になってるのも疲れるから。でも長い時間はまだ起きてると辛いから、ソファで寛いでたりするの。
お母さんも家に帰ったら休みたくても休めなくなるんだからここにいる間はゆっくりしなさいって」
「そうですか。でも本当に無理はしないでくださいね。僕もいるんですから」
「うん。ありがとう」
リビングに繋がる和室に小さな布団が敷いてあって、そこにスヤスヤと眠る赤ちゃんがいた。
「…………」
僕はなにも言えないまま、静乃さんに促されるまま布団の脇に座る。
勿論正座だ。
「やっと会えたわね」
「…………はい」
このときの気持ちをなんと表現したらいいんだろう。
顔だけは画面で見ていたけれど、実際に目の前に眠っている我が子を見るとなんとも言えない温かいものがじんわりと胸の中に広がる。
「小さい……可愛い……」
それが最初の言葉だった。
人差し指だけ伸ばしてそっと頬に触れる。
あたたかくて柔らかい。
「フフ、可愛いわよね。目を開けるとね、史明くんにそっくりなのよ」
「え? 本当ですか?」
「うん。みんな史明くんに似てるって」
「そう……ですか?」
そんな会話の途中で静乃さんが眠っている息子を抱き上げた。
「はい。抱っこしてあげて」
そして大事に抱き抱えながら、僕に渡そうとしてくれる。
「え? ぼ、僕でも大丈夫ですか?」
「なに言ってるのよ。お父さんでしょ。これから嫌っていうほど抱っこしてもらうんですからね。ちゃんと育児にも参加してもらうから」
「は、はい! それはもちろんです。僕、頑張ります!」
「じゃあ頑張ってね。史明くんも初めてかもしれないけど、この子だってお父さんに抱っこしてもらうのは初めてなんだから」
「そうでしたね」
送られてくる写真には僕以外の人に抱っこされたものばかりだった。
仕方のないことだけれど、どれだけ羨ましく思ったことか。
そっと両手を伸ばして静乃さんから小さな我が子を受けとる。
とっても小さくて軽くて儚い存在だけど、でもしっかりと僕の腕の中に存在してる。
「初めまして。僕が貴方のお父さんですよ。これから宜しくお願いしますね。ふふ……ふっ……」
グッと込み上げるものがあって、ギュッと目を瞑る。
「史明くん……」
「すみません……嬉しくて……グズッ」
「ううん」
「出産に立ち会えなくて本当に申し訳ありませんでした。静乃さんに不安な思いをさせてしまいました。夫として失格です」
「気にしてないってば。仕事だったんだし、本当なら史明くんが出張から帰ってきてから生まれるはずだったのが
早くなっちゃんだからしょうがないわよ。そんなに自分を責めないで」
「でも……」
静乃さんがそっと僕の肩に手を置いた。
そして顔を近づけてニッコリと微笑む。
「だったら次のときは一緒にいてちょうだいね」
「え?」
「この子に弟妹がほしいと思ってるんだけど?」
「は、はい! そうですよね。次のときは必ず、ずっと静乃さんの側にいますから!」
「ありがとう。で? 名前は決まったの?」
子供の名前は自分が考えると言っていたので、今までいくつかの候補を伝えていた。
生まれてから子供の顔を見て、さらに候補を絞ってじっくりと考えますと言ってから仕事以外の時間をそのことに費やしたんじゃないだろうか。
そして決めた名前。
「はい。想い合うの“想”と“良”という字で“そら”です」
「
想良
?」
「はい。僕達が想いあって結ばれてできた子です。“良”という字にはとてもたくさんのいい意味があって選びました」
「そう……想良」
「はい、想良です」
「いい名前ね。なんだか字は違うけど“空”にも思えて、心の広いおおらかな子になりそうな気がするわ」
「はい。何事にも動じない、けれど寛容な気持ちも持ち合わさってくれたらと思います」
先のことはわからないけれど、この子も行く行くはあの会社を引っ張っていくことになるかもしれない。
僕も父も手を貸すとは思うけれど、やはりこの子の持って生まれたモノが物を言うとは思うから。
「どう? 我が子との対面は?」
お義母さんがお茶の乗ったお盆を持ってニコニコ笑顔で現れた。
「可愛いです。小さくて軽くて壊れてしまいそうですけど」
「あっという間に大きくなるわよ」
「そうでしょうか……それはちょっと残念な気がします」
僕はギュッと握られている想良の手を自分の人差し指で触れて撫でる。
本当になにもかも小さくて華奢だ。
「史明くんのお義父さんにも落ち着いたらご挨拶に伺わないと。入院してるときに一度だけ会いに来てくれただけだから、
ゆっくりとこの子を見てないの。しばらくここにいるから余計に会えないでしょ」
「家に戻ったらうちの実家にも顔を出しましょう。僕から話しておきますので、静乃さんはなにも心配しないで
ゆっくりと身体を休めてください」
「お言葉に甘えて、史明くんにお任せするわね。家に戻ったら必ず伺いますって伝えてね」
「はい、わかりました」
出張中に父親からも連絡はもらっていた。
お祝いの言葉と、自分たちの方はあまり気にしないようにと。
初めての出産だし、静乃さんも自分の実家のほうが落ち着くのはわかっているからと。
落ち着いたら三人で遊びにおいでと言われていたから、僕のほうの家のことはあまり気にしていなかった。
「ぐっすり眠ってるわね〜目を開けると史明さんにそっくりなのよ」
「そうなんですか? 静乃さんもそう言ってましたけど」
「目が似てるのよね。静乃」
「うん、そっくり」
「それは楽しみです。早く見たいですね」
といって寝ている想良をわざと起こすワケにもいかないので、それはしばらくおあずけになりそうである。
「そういえば、名前決まったの? さすがに名無しの権兵衛さんじゃ可哀想だものね」
「はい。決まりました」
お義母さんにもさっき静乃さんに話したことと同じことを説明する。
すると早速『想良く〜ん』と何度も名前を呼んで頬っぺたをツンツンと突いていた。
それなのに目を覚まさない我が息子。
これは……大物なのか、ただ単に鈍感なだけなのか。
今から先が楽しみだ。
そのあと少しだけ想良を抱っこして、後ろ髪を引かれるおもいで静乃さんの実家をあとにした。
僕も静乃さんの実家に泊まらせてほしかったけれど、ただでさえ生まれたばかりの赤ん坊の世話で大変だろうと思って、
僕は自分達の家で約1ヶ月を過ごすことになる。
時間が許す限り二人に会いに行った。
初めて起きていた想良に会えたときは感動でウルッときてしまったのは仕方ない。
そしてみんなが言う通り、僕に似ている想良を見てさらに涙腺が緩んだのも仕方ないことだと思う。
「副社長」
「…………」
「副社長?」
「…………」
「副社長!」
「はっはい!! ミルクですか? オムツですか?」
座っていたイスから目の前の机に勢いよく両手をついて立ち上がった。
「…………え?」
目の前には驚きを隠せない顔で、それでも気にしていないという態度と視線の平林さんが。
「…………いえ、コーヒーをお持ちしましょうか? と」
「へ? ああ……はい、お願いします」
ああ、ここは会社で副社長室だ。
どうやら
転寝
をしてしまったらしい。
「いつもより濃い目のほうがよろしいですか?」
「はい…………お願いします……すみません、平林さん」
「いえ、今はお昼の時間ですからその時間を昼寝に使うのは何の問題もありません。ですが残り時間を考えますと、
そろそろお目覚めになったほうがいいと思ったまでで。
午後に備えてコーヒーで目を覚ませればとお声を掛けたまでです。
逆に差し出がましいことをして、要らぬ世話でなければ宜しいのですが?」
「いえ……助かります」
「では、今お持ちしますね」
「お願いします」
パタリと静かな音で副社長室のドアが閉まる。
「はあ〜〜〜〜」
僕は両手で顔を覆って深い溜息をつきながらイスに座った。
「…………甘く見ていた……のかな?」
ここ数日のことを思い返してボソリと呟く。
「世の母親はこれを毎日にようにこなしているなんて……尊敬の一言に尽きますね。それに仕事を持ってる人はもっと大変でしょうに……」
5日前の日曜日、1ヶ月を過ぎて静乃さんも想良もどこにも異常はないということで我が家に帰ってきた。
最初はやっと戻って来た2人と、今日から家族3人の生活に浮かれまくっていた僕。
夕食は静乃さんと想良を向かいに行きがてら、静乃さんの実家でご馳走になったのでこのあとはお風呂に入ってゆっくりするだけ……
なんて思っていた僕はその考えの甘さに打ちのめされる。
「わっ! わっ! し、静乃さん、お、お湯が耳に入りそうです!」
「大丈夫よ、ちゃんと指で押さえてあげれば。あ、そんな力を入れちゃダメだって」
初めての我が子の沐浴に挑戦していた。
一緒の湯舟にはまだ無理なので、吟味に吟味を重ねた上で購入したベビーバスに僕が自宅で初めて想良をお風呂に入れた。
事前に受けた父親学級での沐浴で自信があった僕は、余裕綽々で想良を入れることを請け負った。
なのに……なんでこうなるんだろう?
湯舟に入った想良がジッとしててくれない。
少しでも不安をなくすために身体にガーゼ生地のタオルを掛けてあるのに、小さな身体をモソモソと動かすから想良の身体が安定しない。
「動かないでください。ジッとして! いい子ですから!」
「フフ。そんなに慌てないで、史明くん」
「でも……」
「大丈夫。こうやって優しく撫でるようにお湯を掛けてあげればいいのよ」
「…………こ、こうですか?」
恐る恐るお湯で濡れた自分の手の平で、想良の小さくて柔らなか頭を撫でるように拭う。
「身体はこのガーゼのタオルを使って優しく洗うの。ひと通り洗ったら次は手にベビー石鹸をつけて身体を洗うのよ」
「…………うぅ……なかなか難しいですね。やっぱり動ないお人形のときとは勝手が違います」
「慣れれば大丈夫よ。私も最初はおっかなびっくりでお母さんに色々教えてもらいながらだったもの」
「そうなんですか? そういうことなら慣れるまで僕も頑張ります」
「そうね。頑張ってね、お父さん」
「はい!」
静乃さんに“お父さん”なんて言われて俄然ヤル気なった僕。
けれど次の言葉でそのヤル気はサッと引っ込んでしまった。
「じゃあ、次は背中を洗うから想良を俯せにして」
「はい!?」
素っ頓狂な返事をして固まった僕を静乃さんが不思議そうに見ている。
「ん? どうしたの、史明くん? 早くしないと想良が疲れちゃうわよ」
ニッコリ笑顔の静乃さん。
た、たしかに“僕が想良をお風呂に入れます!”と言ったのは僕です。
“ちゃんと父親学級で体験しましたから大丈夫です!”って言いましたよ。
で、でも、こんなクニャクニャの首も座っていない赤ちゃんを、一歩間違えば水面に顔を着けてしまうかもしれないのに俯せにするですって!?
沐浴のド素人の僕に、そんな高度な技ができると思ってるんですか? 静乃さん!
という僕の心の叫びは静乃さんには全く伝わらず、もしかして伝わっていたかもしれないけれどワザと無視されたのかもしれない。
なんとか静乃さんの指示に従いながら、初めての我が子の入浴を終わらせることができた。
自分がお風呂に入ったわけではないのに、終わったときには全身が汗だくだった。
そのあとは夜中に想良の鳴き声で何度も起きることとなり、それが毎晩続くとかなり身体に堪えた。
静乃さんは僕は昼間仕事があるんだから無理しなくていいと言ってくれるのだけれど、やはりそういうわけにはいかず、
オムツの交換とか僕にできることは少しでも手伝おうと思ってる。
ただ、どうしても眠気に勝てないときは静乃さんにお任せしてしまうこともあるのだけれど。
自分としては色々初めてのことで、やはり慣れるまである程度時間がかかるのは仕方ないと思ってる。
慣れてくればもう少しどうにかなるんじゃないか? と思うけど、とにかく今は眠くなって仕方がない。
聞くところによると、もう少し大きくなれば夜中に起きる間隔も長くなっていくらしく、手もかからなくなるらしい。
そう思うと、こういうこともちょっとの間のことなのかとホッとする反面、子供の成長はあっという間に進んでしまうものなんだな……なんて。
それを裏付けるように、想良の体重は生まれたときより1kgほど増えている。
顔だって、生まれたときとは違って大分しっかりしてきた。
育児は大変ですけど、それ以上の嬉しい気持ちを僕に与えてくれている。
「本当にあっという間ですよね……」
「失礼します」
今までの育児を振り返っていると、平林さんが濃い目のコーヒーを持ってきてくれた。
それを受け取りながら、今ごろ静乃さんと想良はどうしているだろうとふたりに思いをはせる。
今日はいつもより帰りが遅くなりそうなんですよね……と今からガッカリな気分だ。
コーヒーを飲みながら、自分のデスクの上に増えた僕と静乃さんと想良との3人の写真を見て顔が綻ぶ。
「今度の休みは家でゆっくりできるように、お父さんは頑張りますからね!」
と、写真に向かって約束した。
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