目の前で玄関のドアが閉まって、僕は後ろ向きのまま歩いていたらしい。
気づいたら車の後部座席に座っていて、森末さんが心配そうに運転席から振り返って僕の名前を呼んでいた。
「史明様! 大丈夫でございますか? 史明様!!」
「…………ぇ……?」
やっと森末さんの呼ぶ声に反応して顔を上げた。
でも目の焦点が合っていないのが自分でもわかる。
全てどこかが上の空で、返事も曖昧だ。
「静乃様はいらっしゃったんですか?」
「え? ああ……静乃さん……いらっしゃいましたよ……」
変な言葉遣いになっていたのもまったく気づいていなくて、それが森末さんを余計心配させたらしい。
目の前で玄関のドアが閉まって、僕は後ろ向きのまま歩いていたらしい。
気づいたら車の後部座席に座っていて、森末さんが心配そうに運転席から振り返って僕の名前を呼んでいた。
「史明様! 大丈夫でございますか? 史明様!!」
「…………ぇ……?」
やっと森末さんの呼ぶ声に反応して顔を上げた。
でも目の焦点が合っていないのが自分でもわかる。
全てどこかが上の空で、返事も曖昧だ。
「静乃様はいらっしゃったんですか?」
「え? ああ……静乃さん……いらっしゃいましたよ……」
変な言葉遣いになっていたのもまったく気づいていなくて、それが森末さんを余計心配させたらしい。
「史明様、本当に大丈夫ですか?」
「はは……大丈夫……ですよ……そう、大丈夫……」
「史明様、本当に大丈夫ですか?」
「はは……大丈夫……ですよ……そう、大丈夫……」
「では、静乃様は?」
「今日は……静乃さんは実家に泊まるそうです……」
「そうですか……わかりました。ではもうご自宅に戻られますか」
「え? あ……どうしましょうかね……ああ、“Buon giorno (ブオン ジョルノ)”にお願いします」
「子安様のところですか?」
「はい、彼のお店です」
「…………史明様、本当に大丈夫ですか?」
「行ってください」
「承知いたしました」
「…………」
家になんて帰れるわけない。
帰ってもひとりで、静乃さんと一緒に暮らす前ならまだしも、静乃さんと一緒に暮らし始めたあとであの部屋にひとりは辛すぎる。
しかもあんな別れ方のあとで……。
相当怒ってるんだろうか……それとも、呆れてしまって僕に愛想が尽きた?
「…………くっ」
ああ、ハナの奥がツンっとなる。
メガネを外して両手で顔を覆う。
「ふ……はぁ……」
なんとか深く呼吸を繰り返して嗚咽を堪える。
だって……今日のことはすべて僕のせいだから。
僕が静乃さんに不快な想いをさせてしまったから。
「あの、お酒を飲まれないなら帰ってもらえますか? 史明さん」
「…………」
“
Buon
giorno
” のオーナー兼バーテンダーの子安さんが、カウンターの隅っこで大人しくしている僕にそんなコトを言う。
目の前には出されたお酒が、解けた氷で薄まったまま放置されている。
お酒を提供する所で、なにも頼まないのは失礼かと思ってどうでもいいお酒を頼んだ。
最初から飲む気なんてなかったけれど。
「大人しく……しているじゃないですか」
以前、僕ひとりで飲みに来て多大な迷惑をかけてから子安さんは僕がひとりで訪れると警戒するようになった。
ひたすら謝って静乃さん絡みだったと説明すると“仕方ないですね……”と許してもらい、出入り禁止は免れた。
どうやら静乃さんに免じて許されたらしい。
ああ、こんなところでも静乃さんは好かれているんですね。
なんて胸の中がほっこりしたのを憶えている。
そんな静乃さんに僕は……
「はああああああああーーーーーー」
罪悪感と自分に対する嫌悪感……静乃さんに拒絶された絶望感……その他諸々のマイナスの感情から深い深い溜息をつく。
「そのネガティブな陰湿オーラ撒き散らしながら、溜息つくのやめてくださいます?」
「え?」
「他のお客様に不快ですし、なにより店の雰囲気が台無しです」
「…………はああああああああーーーーーーー」
「史明さん!」
ビシリ! と、こめかみに青筋を出しながらも、プロ根性で笑顔をで僕を嗜める。
ただ、その笑顔は引き攣っていたけれど。
「げっ! 史明?」
ちょっと遠くのほうから聞きなれた声が聞こえた。
ただ、心底残念と感じるほどの声の響きだった。
「ああ、いらっしゃい。裕平、いいところに」
「なにがいいところにだよ……俺的にはどうみてもツイてないだろ」
久しぶりに寄った子安のお店で、まさか史明に会うとは思わなかった。
静乃ちゃんと丸く収まってから仕事が終われば真っ直ぐに家に帰ってた男が、まさか居るとは思わないだろう?
たまに飲みに誘えば“自分を嫁さんから引き離そうとする悪魔か!”みたいな態度と眼差しだっただろうが。
しかもデジャヴかと思えるような史明の状態……帰りたい……帰っていいだろうか。
「裕平」
「!!」
しかし、子安の“帰るのは許さない”オーラで帰るわけにもいかず……仕方なく史明の隣に座る。
「すみません……もう自己嫌悪で……情けなくて……はあああああ〜〜」
そのままカウンターにゴチン! と音がするまで頭を垂れる。
「奥様となにかあったんですか?」
「!!」
子安が訊ねると、大袈裟でもなく俯いたままの史明の肩がビクン! と跳ねた。
マジか?
「その様子からだときっと史明さんが悪いのでしょう? サッサと謝って許してもらったらどうですか? 奥様ならきっと許してくれますよ」
「……そうでしょうか……」
「ええ」
「本当に?」
カウンターの上に顔を伏せたままの会話で、史明の声はくぐもっている。
今の史明の心情が表れてる気がして、余計気分が重くなる。
忘れもしない、あの最悪な夜のことは!
「謝っても許してもらえないようなことをしたんですか?」
「どうでしょうか……許すとかではなくて、もしかしたらもう僕のことなんて呆れてしまってるかもしれません」
「呆れるなら、とっくの昔に呆れているんじゃないですかね。そもそも、そんな相手と結婚なんてしないでしょう」
「そうでしょうか……」
うんうん、と史明が見ていないことをいいことに、俺は何度も頷いた。
「なんだよ史明、静乃ちゃんのこと怒らせたのか? 一体なにしたんだ」
「…………」
無言かよ。
「まさか浮気か?」
一番当てはまらないことを言ったつもりなのに、過剰とも思えるほどに史明の身体がビクンと跳ねた。
「え?」
「マジか!?」
子安とふたりで驚いて、顔を見合わせてしまった。
史明が浮気? 冗談だろ?
「お前が? ウソだろ?」
「う、浮気ってワケじゃありませんよ!」
史明がガバリと勢いよく顔を上げる。
「じゃあなんだよ」
「う…浮気したと……誤解されてるだけです……たぶん……」
「たぶん?」
「そのことで話をしようと思ってたんですけど、色々邪魔が入って誤解が解けてないんです」
「は? どういうことだよ」
そこからことの顛末を史明に白状させた。
「たしかにそのお酒は飲みやすいですが、アルコール度の強いお酒ですね。
きっと酔ってたところに強いお酒を飲んで酔いが早く回ったんでしょうね。
史明さんはもともとお酒に強いほうじゃないですし」
「はあ……」
「で、ホテルの部屋に連れ込まれたってわけか」
「まあ……」
「それって普通、男が女に使う手じゃないか? なにそんなのに引っかかってんだよ、史明。お前らしくもない」
「油断してたというか、大学の同期というのもあって……まさかそんなつもりでお酒を勧めてたなんて思わなくて。
仕事絡みで彼女の手を煩わせてしまうと思ったのもあって、お酒にも付き合ったんです。
でもバーテンダーもグルで、強いお酒とは知らずに彼女が話が纏まったお祝いと言って勧めてくれたので飲んだんです。
それから少しして頭がボーっとしてきたと思ったら、気づいたときは彼女のホテルの部屋のベッドの上でした」
「バーテンダーの風上にもおけない奴ですね。お客様に対しても失礼極まりないです。同じ仕事をする者として憤りを感じます」
「最初から史明を酔い潰そうと狙ってたわけか? その同期生は」
「いえ……最初からではなかったみたいです。どうやら僕が彼女をかり立ててしまったらしくて」
「はあ? 一体なにしたんだよ。まさか!? お前から誘ったのか?」
「そ、そんなことするわけないじゃないですか! 僕には静乃さんという奥さんがいるんですよ! 冗談じゃないですよ!」
「わかった、わかった。お前の愛妻家ぶりはわかったから。じゃあ、なんでだよ」
「僕が……」
「史明が?」
「?」
なかなか話さない史明にオレと子安が視線を向ける。
「自分では自覚がないんですが、僕が彼女に静乃さんとのことを惚気たって言うんです。
彼女自身、離婚の話が進んでたらしくて、僕のことを疎ましく思ったみたいです」
「はあ?」
「!」
「言っておきますが、僕は惚気てなんていませんよ。ただ、結婚したということと静乃さんがどれだけ良妻で料理上手かを話しただけです」
「話しただけって……」
ウソでしょう? という顔で子安が史明を見る。
俺もそう思う。
「どうせニヤニヤデレデレしながら、一方的に静乃ちゃんのことを相手に話しまくったんだろう?」
「な、なんで彼女と同じことを言うんですか?」
「…………」
「史明さん……」
やっぱりな。
「で? 酔った勢いでやったのか? いや、やられたのか? か」
「ちょっ…裕平! なんてことを」
「酔っぱらってて、やったかやられたか記憶がないんだろ?」
「未遂ですみましたよ」
「なんでわかる?」
「彼女がそう白状しましたから。自分の身体に違和感もありませんでしたし、それに僕は静乃さん以外に反応なんかしません」
「は?」
真面目くさった顔で言い切るから言葉に詰まる。
「史明さん、そういう言葉はここでは慎んでください」
「裕平がそんな話をふるからです」
「一番肝心なところだろうが」
「でも、そのせいで静乃さんには嫌な思いをさせてしまいました」
「どんな?」
「僕と彼女との間になにかあったかのような言動を静乃さんに聞かせたんです」
「聞かせた?」
「静乃さんからかかってきた電話を彼女が出てしまって、ワザと僕となにか関係があるかのような応対をしたんです。
でもその電話のおかげで僕は目が覚めましたし、彼女も自分がいかにバカなことをしようとしてたか気づいたそうです」
「奥様、絶妙なタイミングでしたね」
「はい……静乃さんに救われました」
「で、その同期の女と会ってるところを静乃ちゃんに“バッチリ!”見られたってワケか。
なんでそんなことのあった女と、またふたりっきりで会うんだ」
「なんで“バッチリ”をそんなに強調するんですか。会っていたんじゃなくて、仕事で一緒にいたんです。
それに、前の日にそんなことがあったと知っていたら、ふたりだけでなんて会いませんでしたよ。
仕事であってもね。諸々のことを知ったのが、静乃さんに彼女と一緒のところを見られたあとでしたから」
「静乃ちゃんも男連れなんて、どんなタイミングなんだよ、お前らふたり」
「昔の知り合いだそうですから、今はその男のことはいいんです。それよりも静乃さんが僕と由行さんのことを誤解してるのが問題です。
彼女と電話で話したことも僕に話してくれませんでしたし」
「静乃ちゃんだってショックだったんだろうよ」
「…………」
「しかも、なくしたネクタイを返してもらってるところまで見られるとはな」
「うっ!」
「静乃ちゃんが誤解して、怒るのも無理ないな」
「裕平〜」
「ん?」
「なんでそんなこと言うんですか! 僕を追いつめて楽しいですか? 僕が今どんなに不安か貴方にはわからないんですか!」
「わかるけどな」
わかってるさ。
でも、今までの精神的苦痛の仕返しを少しでもしてもいいんじゃないかと思うんだよな。
「裕平」
「ああ?」
子安がウンザリした顔で俺を見てる。
目が怖いって。
「それって、逆効果だと思うけど」
「は?」
「はああああああ〜〜〜〜静乃ぁさ〜ん」
史明が大きな溜息をついて、カウンターのテーブルにうっつ伏した。
「ほら、責任取れ」
「へ?」
「はああああああーーー」
「うわっ! ウザっ!」
なんだ、この重っ苦しい溜息は!?
「裕平…」
「なんだよ」
ああ、嫌な予感がする。
「今夜、裕平のところに泊めてください」
「はあ?」
「ひとりであの部屋に居たくありません。いえ、居れません」
「あのな、子供じゃないんだから」
「なら、ここに朝まで置いてください」
「裕平、連れていけ」
「おまっ…裏切り者!」
「前回、先に裏切ったのは裕平だろ。今回はその穴埋めに連れて帰れ」
「…………」
据わった目で見られ、頷くしかなかった。
「シャワー浴びるならサッサと浴びて、寝ろ」
「はあああああ…冷たいですね、裕平は」
「そういうときはとにかく寝ろ。寝てしまえ。お前みたいにグズグズグダグダ悩んでてもしかたないからな。ぐっすり眠って明日に備えろ」
「明日…」
「静乃ちゃんと話し合うんだろ」
「話し合う…」
「史明?」
「…………」
今夜のことを思うと、僕と話し合ってなんてくれるんだろうか…と不安がよぎる。
「不安だ…」
「ちゃんと順を追って話せ。静乃ちゃんならちゃんと話を聞いてくれるだろ。同期の彼女とは仕事がらみで、
ふたりの間にはなにもなかったって説明して嫌な思いさせて悪かったって謝れ」
「もちろん、そのつもりです」
「まあ、信じてもらえるかはわからないけどな。すぐに許してくれるかもわからないしな」
「!!」
そのときの史明といったら、石化したように固まってた。
とんでもなく面白い顔で。
普段の史明からしてみたら、今の状況は生きるか死ぬかくらいの精神状態だろうな。
そんな史明を見て面白がったことを後悔したのは、それからすぐのことだった。
いつまでもグダグダ、ブツブツ、グズグズ……枕もとで呟き続けてる。
頼むから寝かせてくれっ!
一方的に裕平に愚痴を溢していたら、いつの間にか寝息が聞こえてきた。
「はあ……」
しんと静まり返る部屋の中。
ふたりでいても、まるでひとりだ。
寝室を出て、仕方なくリビングのソファにボスッと倒れこむ。
毛布にくるまって、枕代わりのクッションに顔を埋めて抱き込んだ。
「静乃さん……」
考えることは静乃さんのことばかり。
結局、眠ることもできず朝を迎えた。
そして、静乃さんから朝の車の断りの連絡が入ったと、森末さんから僕に伝えられた。
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